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学門紹介

考古学門

オーガナイザー・担当者:邱斯嘉

本所の創立当初は、8つのグループ(組)が設立され、考古学はその中の一つでした。その後、組織再編を経て3グループ(組)に変更され、第3グループ (組)は、考古学、人類学、⺠物学研究を担当していました。1934年に、人類学研究が考古グループから独立し、人類学グループが設立されたのにともない、第3グループは考古学の専門研究グループとなりました。

1928年から1937年の期間、考古グループは、河南安陽で15回におよぶ大規模な発掘調査を行い、商代末期の都城における宮殿宗廟エリアと王陵エリアから、大量の文字付甲骨、銅器、陶器、玉石器などの文物が出土しました。当時の学術界は、古代王朝を疑問視する風潮があったものの、これによって、中国古代史研究の中で新たな一ページが開かれるとともに、本所は世界の学術界における重要な地位を確立しました。また、1928年から1946年まで、考古グループは中国各地域で発掘・調査を行い、中国近代考古学におけるフィールドワークの規範を確立しました。

本所が台湾に移動した初期、考古グループの研究員達は、中国大陸で発掘した考古資料の整理に集中し、その成果は、『中国考古報告集』(小屯・侯家荘・古器物研究専刊) などの、2、03冊におよぶ大冊として出版されました。その後、台湾での考古調査と発掘作業も始まり、1972年には、国家科学委員会の推進する「台湾省濁水・大肚渓流域における自然と文化史の学際的研究プロジェクト」をきっかけに、本所に「台湾考古研究室」が設立されました。台湾での考古調査は本所の重要業務のひとつとなり、そのフィールドワーク調査と発掘調査の対象は、台湾本島全域における各地の平野や山地へと広がりました。その地域には、大甲渓、大肚渓、濁水渓、曽文渓、高屏渓などの 流域や、緑島、蘭嶼、金門、馬祖などの離島も含まれました。発掘された重要な遺跡には、大馬璘、圓山、曲冰、左営、十三行、⻲山、⻄寮、支亞干(萬栄平林)、八仙洞、籬仔尾、漢本、花岡山、植物園などがあります。これらの遺跡は、台湾の先史時代から歴史時代にいたる文化史の構築、古代人の生活や社会状況の再現、台湾島内や周辺地域の人々との相互交流といった研究に重要なデータを提供しており、台湾史の記述、および郷土教育の推進において、多大な貢献を果たしています。

考古学門の現在の主要な研究項目は、次の三つです。(一) 中原を中心とするアジア大陸地域の考古学研究(夏商周三代文明の考古、中国上古史、⻄南地域考古研究を含む)。(二) 台湾を中心に、東南アジアや太平洋地域にも拡大した考古学研究(先史時代の台湾史、南島⺠族の起源と移動の歴史、台湾における考古学理論と方法の確立)、歴史考古学や台湾早期の歴史の構築 (九世紀以降の南海周辺地域における考古学研究、台湾および周辺の島の初期の歴史に関する考古学研究、水中考古学などを含む)。(三) 科学技術に よる考古学研究(金属器、陶器、玉石器、ガラスなどの出土物と、人骨や生態系の遺留物、遺跡土壌に関する試験分析研究などを含む)を通じ、古代の人類集団の生活環境、社会の様子、工芸技術、古代の人類集団の発展過程や集団間のインタラクションなどの検討を深める。

これまでの研究を基礎に、研究の質をさらに高め、特色ある研究領域を開拓するため、本学門の研究者を主要メンバーとし、「台湾・東南アジア考古学 研究室」の設立が計画されました。これは、台湾考古学界の研究を結集し、それをさらに、ベトナム、フィリピン、東ティモールといった地域におけるフィールド・ワークへと拡張し、台湾とその周辺地域における考古文化に対して、より深化した探究を展開していくものです。2013年からは、従来当院の人文社会科学研究センターの管轄下にあった「考古学研究専門センター」 が本所に編入されました。それにより、当学門における台湾・中原という二つの中心的研究区域と結びつき、中国東南沿海、台湾、海域東南アジア、 太平洋地域などの全域に渡る、地域の境界を超えた考古文化の探究が可能となりました。当院における考古学研究のグループが統合されてひとつになったことで、南島⺠族の起源と移動に関する研究が強化され、学際的な地域研究の促進が期待されます。

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