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沿革

本所は1928年に創設されました。1928年初め、大学院中央研究院準備委員傅斯年氏は大学院院長蔡元培氏に、「歴史語言研究所」の設置を提案しました。同3月、中央研究院は、広州中山大学において「歴史語言研究所」準備処を設置し、さらに、傅斯年・顧頡剛・楊振聲氏三名がその準備委員として招聘されました。同7月には正式に成立し、傅斯年氏が所長代行として職務に当たりました。同10月22日に広州柏園に移転したとき、はじめて独立した所在を得たので、その日が本所の創立記念日に定められました。

はじめ広州時代には、史料・漢語・文籍考訂・民間芸術・漢字・考古・人類学及び民物学・敦煌材料の研究などの、8部門が設置されました。1929年に北平へ移転した際、本来設置されていた8部門は、3つのグループに合併されました。第一グループの歴史学組は、歴史学と文籍考訂を担当しました。第二グループの言語学組は、言語学と民間芸術を担当しました。第三グループの考古学組は、考古学・人類学及び民物学を担当しました。陳寅恪、趙元任、李濟氏が三つのグループの主任として招聘されました。本所は満州事変(1931年)後に、北平から上海に移転しました。1934年に南京において、中央研究院の建物が次々に竣工したので、上海から南京に遷りました。そして同年5月には人類学組が増設されました。

その後、日中戦争時に、本所の所在地は湖南長沙へ、さらに雲南昆明へ、そして四川南溪県李荘の板栗坳へと移転しました。1946年に南京に戻り、各項目の研究を促進し続けた一方、北平東方文化研究所及び近代科学図書館図書の所蔵を受け継ぎ、「北平図書史料整理処」が設置されました。1948年冬に、時局激変のために、傅斯年所長の主導により、本所の人員および図書・標本・文物などの物品を南京から台湾へと移転しました。臨時拠点の所在地は桃園県楊梅鎮に定められました。その後、本所は1954年、中央研究院とともに、南港の現所在地に落ち着きました。幸いにも時局が平穏になり、台湾経済も発展したので、本所の規模は日々拡大しました。1955年には、建物は研究棟1棟と倉庫1軒のみでしたが、1958年には考古館の建設が始められました。また1968年から考古館の別館が、数回にわたり増築されました。1961年には傅斯年図書館が竣工しました。1978年に図書館の第二書庫、および1989年第三書庫が増築されました。さらに1986年に、歴史文物陳列館が正式に開館しました。1994年に、新しい研究棟が完成しました。以上の過程を経て、建物は現在の規模になりました。

移転先が南港に落ち着いた後、本所の構成にも若干の調整が行われました。1958年に甲骨文研究室が増設された後、1990年に名称は文字学組に変更されました。また、本所の重要図書や文物などの所蔵を保管するために、新たに 3つの館が設置されました。すなわち、傅斯年図書館・歴史文物陳列館・台湾考古館です。1995年以降、グループ研究を推進するために、專門研究室が設置されました。現在設置されているのは、文化思想史・法律史・台湾と東南アジア考古学・文物と図像・生命と医療史・礼俗と宗教・世界史・古代文明・デジタル人文学など、計9つの研究室です。さらに、前後して明清档案研究、漢籍データベース研究、地理情報システム研究、金文研究、安陽研究の5つのグループ、および考古科学研究、文物保存修復の2つの実験室も設置されました。1997年、言語グループにおいて言語学研究所準備処が設立されましたが、本所の名称は維持されたままで、歴史学・考古学・人類学・文字学の、4つのグループの構成となりました。2003年、「グループ(組)」という機関名を廃止するという研究院の政策に応じ、「組」は「学門」と名を改めました。そして、学門の招集人(主任)が人事・事務・学術など、各方面の管理を務めることとなりました。その他に、本所の成立以来収集した文書やアーカイブを統一的に保存・管理する事、デジタル情報を統合する事、及び各館同士の交流を強化していくために、2014年本所において、档案館が設置されました。

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